前章で遺伝子のスイッチがオンになるとその遺伝子が発現してタンパク質が作られるというお話をしました。 それでは、どのようなときにスイッチがオンになるのでしょうか。
現在このような遺伝子のスイッチングのメカニズムを調べる研究が世界中で行われていますが、この研究を「エピジェネテイクス」と呼んでいます。そして、がん化や老化など、遺伝子の配列の変化を伴わない後天的な現象の多くが、この遺伝子のスイッチングに関係していることが明らかになってきました。
本章では、この「エピジェネテイクス」をわかり易くご説明したいと考えます。 そのためにはまず、遺伝子がどのような形で細胞の中に存在しているかを知る必要があります。 私たちの身体はすべて細胞から成り立っており、従って、そのすべての細胞には私たちが両親から受け継いだ同じ遺伝子が存在しています。 細胞の中心には「核」が存在しますが、これらの遺伝子はヒストンと呼ばれるタンパク質に巻きついてさらに折り畳まれた状態で核のなかに納められています。 この中心になるヒストンタンパク質は通常4種類8個からなり、このまわりにDNAが巻きついて「クロマチン」と呼ばれる構造をとっています。このひとつのクロマチンにはおよそ150塩基対のDNAが巻きついているといわれています。 |
今まで行われたエピジェネテイクス研究の結果、遺伝子のスイッチングはクロマチンの形状が関係していることが明らかになってきました。 すなわち、図のようにクロマチン構造が固まった状態ではスイッチはオフになり、逆に開いた状態ではスイッチがオンになるということです。
さらに、このクロマチンの構造変化が、中心にあるヒストンタンパク質や、これに巻きついているDNAの化学修飾によって起きているということも分かってきました。 例えば、ヒストンタンパク質が、メチル化されると固まった状態になり、スイッチがオフになり、また、アセチル化されることにより、開いた状態になるということが明らかにされています。
一方このヒストンタンパク質に巻きついているDNAについても、その中にあるC(シトシン)がメチル化されることにより、スイッチがオフになることも分かってきました。
このようなクロマチンの構造変化(エピジェネテイクスプロセス)は遺伝子配列の変化を伴わないものであり、私たちが父母から受け継いだ遺伝子配列はそのまま維持されているのに、こうしたエピジェネテイクス的な変化によって遺伝子発現が制御され、毎日作られるタンパク質の種類や量が違ってくることになります。
そしてこのようなエピジェネテイクス的変化が がん化や老化などの後天的な疾患の原因ともなっていると考えられています。
このことは非常に重要なことで、今までは両親から受け継いだ遺伝子による私たちの「体質」は一生変わらないと考えられてきました。確かにこれらの遺伝子配列による体質、例えば肥満になりやすいとか、がんになりやすいとかいうような、いわゆる「先天的体質」は変わらないと考えられますが、一方、それよりも「後天的体質」つまり、同じリスクのある遺伝子配列を有する人であっても、エピジェネテイクスな変化が異なれば当然遺伝子発現が違ってくることになり、従ってある特定の後天的疾患に対するリスクは違ってくると考えられます。そしてこれらのエピジェネテイクス変化は毎日の私たちの生活習慣、例えば食事、運動、ストレスなどによって大きく影響されてくると考えられます。
ひとつの例をあげれば、例えば先天的にがんになりやすい遺伝子配列として、「発がん遺伝子」(オンコジーン)の存在、またがん化を抑制する遺伝子として「がん抑制遺伝子」(サプレッサージーン)の存在が知られています。 しかし、もしエピジェネテイクスな変化において仮に発がん遺伝子のスイッチがオフになって遺伝子発現が抑えられるか、或いは「がん抑制遺伝子」のスイッチがオンになって遺伝子発現が増強されれば、仮にその人の「先天的体質」ががんになりやすい体質であっても、エピジェネテイクスな変化次第ではがんにならない可能性もあるということになるのです。 エピジェネテイクス研究の進歩によって、このような後天的疾患に対して、いわゆる「予防的治療」の可能性が明らかになってくるのではないかといわれています。今世界中で、がん疾患や種々の後天的疾患とエピジェネテイクス変化との関連や新しい診断のためのバイオマーカー発見についての研究が盛んに行われるようになってきました。 |