今までご説明したように私たち個人の遺伝子型はそれぞれ異なること、そして個々の体質はそれぞれ個人差があることがお分かりになったことと思います。 近い将来遺伝子検査や遺伝子診断が普及してくると、こうした個人差のある体質に応じて、個人別の医療の可能性が論じられるようになってきました。
このように個人別の体質に応じた医療を行うことをテーラーメード医療(又はオーダーメード医療)と呼びます。
それではテーラーメード医療とはどのような医療でしょうか。 皆さんにとって一番分かり易いのは私たちが洋服を作る場合を例にとってご説明することです。 皆さんが洋服を欲しいと思ったとき、その洋服が例えば普段よく着るようなものであれば、予めサイズやデザイン、色などが揃っている既製服を買い求めるでしょう。
しかしながら、特別な場合、例えば結婚式に着るような服が必要な場合などは、ありきたりの既製服でなく、自分の好みや体型に合わせた独自のデザインの洋服が欲しくなるのではないでしょうか。 そしてこのような場合は洋服専門店を訪ねて自分だけのための洋服即ちテーラーメードスーツを注文することになります。
つまり既製服とテーラーメードの大きな違いは、既製服はあくまで「平均的な大多数の人々を対象に作られた洋服」であるのに対して、テーラーメードは「個人情報に基づき、その特定の個人のための洋服」であるということです。 医療の場合もこれと同じように、今までの医療や医薬はあくまで、「平均的大多数」を対象とした平均的医療・医薬でありました。つまり、今の治療はもしその疾患や症状が同じであれば誰に対しても同じ治療が行われ、同じ薬が用いられるということです。 |
これに対してテーラーメード医療はまずその個人の遺伝子情報を調べ、その個人の体質や病気の状態を把握した上で、その人に確実に効果のある投薬や治療を行うということです。 特に投薬については、ある薬についてその人の遺伝子型によって代謝機能が大きく違う場合があり、同じ量を投薬しても、この薬の効き目が異なることが分かってきました。また、薬の副作用についても、遺伝子型によって違ってくることが分かっています。
従って、今後開発される新薬については、予めこのような薬の効果や副作用と遺伝子型との関係を調べて、個人の遺伝子型に対応した投薬が行われるようになってきました。
現在の「平均的大多数」を対象とした医療から「個人別医療」への変革が進むと医療の分野において次のような変化が起こってくると考えられます。
1) 患者と医師の関係の変化
今までの治療は医師の立場から患者の「病気」を見つめてその状態や原因を正確に把握し、適切な治療法や投薬を「選択する」ことが重要と考えられました。
しかしながら、今後個人別の医療が行われると、まず、医師は患者の遺伝子情報や病態に関する「個人情報」を収集し、その結果に基づいてその個人に合った「個人別治療」を施すことになります。
そのためには、患者の「個人情報」の保護義務や、患者に対する治療方針の説明のために患者と向き合って「インフォームドコンセント」を行わなければなりません。そして、この結果、医師と患者との間の信頼関係が構築され、患者の立場に立った医療行為が行われるようになると考えられます。
2) 発病後の治療から発病前の治療へ(予防的治療の重視)
今までは患者が発病してから、その疾患にたいして治療が行われてきましたが、今後患者の個人別情報が遺伝子レベルで解析され、特に特定の疾患に対するリスクが明らかになってくると、予めこの特定の疾患(例えば高血圧症、脳卒中、癌など)にたいして予防的な医療を行って、たとえ先天的なリスクがあっても、これを未然に防ぐような新しい形態の治療が可能になってきます。
特に成人病にたいするリスクについてはこのような遺伝子情報を調べることによりかなりの確率で予測が行われるようになり、その個人に合った予防的な治療の可能性が高まってくると考えられます。
3) 医療システムの変化
現在行われている医療の主体は総合病院を中心とする治療であり、その基本コンセプトは「平均的大多数」を対象とする治療です。 このシステムはいわゆる発病後の治療に対しては効率的なシステムであると考えられますが、一方「個人別治療」や「予防的医療」には必ずしも最適なシステムとは思えません。
特に今後の「テーラーメード医療」においては、個人情報に基づく個人別治療さらには予防的治療が主体となってきます。 こうした医療においては、現状の総合病院システムだけでなく、地域に密着して個人別医療や予防的医療を行えるようないわゆる「ファミリードクター」の存在が不可欠と考えられます。
さらに、予防的な治療においては医師と患者の相互信頼に基づく個人別の疾患のリスクを把握した上で、その個人に合った適切な治療を施すことが必要となり、まさにこれが「ファミリードクター」の主たる役割となってくるでしょう。
いままでのお話を通じて、私たちの身体は遺伝子の働きによって調節されているということを説明してきました。 ここで、あらためてその「遺伝子の働き」について復習してみたいと思います。
遺伝子の働きについては、すでに第2話及び第3話でお話しましたが、ここでまた遺伝子の働きをまとめてみます。
まず、遺伝子の働きは、遺伝子に書き込まれた情報を読み取って、私たちの身体に必要なタンパク質を合成することですが、この場合、遺伝子の機能としてつぎの2つの働きがあるということをお話ししました。
①は時間に無関係で、一生変わらない情報機能であり、従って、その個人の先天的な体質つまり「潜在的疾患リスク」に関係しています。
一方の②は時間により変化し、その個人の後天的な「顕在的疾患原因」となる可能性があります。 特に②の遺伝子発現については、第3話のエピジェネテイクスと後天的疾患の項でご説明したように、たとえ先天的な体質としてある疾患の「潜在的リスク」があったとしても、そのスイッチが入らない限り発現しない可能性もあるということです。そしてこのことはまさに前述した「予防的治療」の可能性を示唆するものです。
ここでいう「予防的医療」とは疾患に関する潜在的リスク特に慢性疾患に関するリスクを阻止するためのあらゆる治療的手段を指します。
今こうした「予防的医療」として一般的に云われている具体的方法としては食事・栄養、運動・スポーツ、禁煙・禁酒、肥満予防、サプリメント、などがあげられていますが、その他に、人間の精神的行動や社会行動(家族、人間関係、コミニュテイ活動など)も広い意味で予防的医療と考えられています。 以上のような「予防的治療」はなぜ効果があると考えられているのでしょうか? それは、すでにお話したように、「遺伝的な遺伝子型は変えることは出来ないが、遺伝子発現は変えることが可能である」というコンセプトに基づくからです。 |
そしていまの段階ではまだ、この遺伝子発現の鍵である「スイッチング」を解明するエピジェネテイクスにおいてはまだ研究が続けられており、そのメカニズムのすべてが明らかになったとは云えませんが、少なくともこれらの「予防的医療」が有効であるとすれば、それは予防的医療手段によって「遺伝子発現プロファイル」が変化している可能性を示唆するものではないかと思われます。
そしてこのような予防的医療が普及したとき、人々は発病してから病院に行くよりも、普段から予防的医療を心がけることによって、より健康で豊かな生活を営むこととなり、その結果国家としても現在の莫大な医療費が削減されることが期待されるのです。
参考文献
1. | 井出利憲:分子生物学の基本としくみ、秀和システム、(2009) |
2. | 武部啓:3日でわかる遺伝子、ダイヤモンド社、(2007) |
3. | メタボリックシンドローム診断基準検討委員会:メタボリックシンドロームの定義と診断基準.日内会誌、94:188-203, (2005) |
4. | 梅川、楠、原山、吉田:日本人女性における高度肥満症例を含む内臓脂肪面積とウエスト周囲径の相関関係、肥満研究、13:19-22 (2007) |
5. | 吉田俊秀、肥満症治療の最前線、日本病態栄養学会誌 5:11-15 (2002) |
6. | 吉田俊秀:肥満における遺伝子多型の臨床的意義、ホルモンと臨床 53, No.9 67-71 (2006) |
7. | 香川他:「遺伝子多型簡易測定法」、月刊バイオインダストリー(2008) |
8. | Wikipedia: アセトアルデヒド脱水素酵素 |